珈琲から考える建築観

いままで珈琲を焙煎したりいれたりしてきたが、ふと自分の建築観と珈琲の近さを感じたので書く。

 

そもそも、珈琲の味は減点法だと言われる。生豆の状態から、焙煎して、珈琲として入れられるまで、その珈琲豆のもつ本来の味を出すことが目指される。雑味やエグ味が出ないように、あるいは酸味や苦味などのそのままの特性を生かすために、悪い豆は除き、いかに適した焙煎度合い、適した挽き具合、適温、適した時間で注ぐか。

また、サードウェーブ以降の珈琲文化では、安定した味を出すために、全てを数値で管理するデータ派閥まで台頭してきた。

一杯の珈琲をつくることに関わる全ての人は、誰もその珈琲豆を無視して「こうしたい」という意図を持つことは許されない。その珈琲豆のもつ特性を最大限に出すことだけが唯一目指されることなのだ。だから、つくる全ての人は透明で匿名なのだ。(とはいえ、その特性の抽出が上手いが故に名の通っている人は存在するが)

 

建築を設計するとき、自分がこうしたいと思うことはほとんどない。

場所や与えられた条件からどういう特性を見つけ、その特性をいかに顕在化あるいは引き継ぐか。

だからそういう意味では、建物をつくる必要も必ずしもあるわけではない。

建築の設計とは、ただそこに存在するコードを読み取り、パラメーターをどう調整するかという作業でしかないと思うのだ。

恣意や作為はいらない。作家性は必要ない。

設計者は透明で匿名でいい。

抽出が上手いが故に名が通ってしまうような、そういう設計をしていきたいと思う。