第一回万博シンポジウム 要約(らしきもの)と感想

*まだ下書きだけど、編集する時間もないし、鮮度が大事なので公開

 

藤村龍至の討議目録は以下の3点だった。

 Q1.SNS時代の建築家は社会が求める透明性、公開性にどのように関わるか?

 Q2.建築家はプロジェクトにおける建築の根拠を以下に掲げるか?

 Q3.建築界は今回の万博から何を引き出すのか?

この目録は、パネリストによって早々に棄却されてしまった。

 

私は、今回のシンポジウムの討議は、総じて建築家の職能についてに収束するように思われた。それを順番に整理していこうと思う。

 

万博の炎上は上記の目録から逆説的に、社会に対して不透明、非公開で、建築の根拠が不明瞭で、何も価値が引き出されないように見えたことだといえよう。「350億円」や「IR誘致」の政治的な意図に対しての反感である。

 

ここで、建築家の立ち位置を考える。

一般的に従来の建築家の仕事とはほとんどクライアントワークである。力関係が明確にクライアントの方が上である。クライアントが組み立てた枠組みの中でどう「踊る」のかが建築家の職能である。

藤本からも、ガイドブックに各建築物の設計者の記載がないことを全く相談もなしに行われていたという話が語られている。

建築家が「会場デザインプロデューサー」という立場でありながら、全てをコントロールできていないことが明らかになっている。建築関係者からすると、「コントロールできていない藤本の力量不足だ」あるいは、「悪いクライアントに捕まってしまったな」という感想になるだろう。どちらにしろ、枠組み自体を作ることではなく、その枠組みの中でどう「踊る」かという方向に向かうことになる。これが、現代日本建築業界の「常識」である。

少なくとも、今回のパネリストはそれを常識として捉えていた世代であろう。そして、これからの世代は、この「常識」を塗り替えるところから始めなければいけない。

これが一つ目の答えだ。

 

しかし、ただこれを答えにしてもしようがないので、その常識の中に入って続きを見ていくしかない。

 

このシンポジウムに骨格を作ったのは、塚本由晴の「神話」「プロレス」「忘却」「空間」「生産と分配」と「叙事詩」「事物連関」「経路依存」「贈与と交換」という二項対立である。前者は、現代まで続く近代産業社会であり、後者は、ある種それよりも以前かつこれからの目指すところとして取り上げられた。

前者は説明するまでもないので、後者を筆者が理解している範囲でまとめる。

  • 叙事詩」:歴史的な出来事を地続きで扱う(↔︎神話)
  • 「事物連関」:人・物・事のネットワークとしての建築のあり方(↔︎空間)。
    • 近代以前の土着的事物連関には、強い束縛があり、それから逃れられるようになった近代産業革命以降「空間」という概念が持ち出された。ただ当時「事物連関」への批判としての「空間」は、70年代頃には「空間」への批判としての「空間」という自家撞着に陥っている。という批判を伴っている。
  • 「経路依存」:過去から未来、どこから来たものなのか、どこへいくのかという流れに依存すること。(↔︎守秘義務によって遮断された今回の万博→忘却戦略→神話)
  • 「贈与と交換」:自己変容を伴う(↔︎生産と分配)

さて、この二項対立をもとにしながら、討議をまとめよう。

塚本は建築家の職能が、前者から後者へと移行してきているという。空間という切断されたものから、共に作るような事物連関の建築へと変化してきている。そして経路依存による建築は、その流れに依存するが故に、最終形がわからないままある。そうした中で、建築家に求められるものは、そうした不明瞭の状態でも、それでも前に進める力量である。伊東豊雄の「オニクル」が一つの成功事例であろう(本人は、それほど歯を食いしばったりはしていないと言っている)。

 

一方で、社会に対する説明可能性(点数制のプロポーザル然り)はそれこそ決められた枠組み(普通至上主義)に陥る。これはある種ポリティカルコレクトネス的な側面を持ち、正しさの全面化による非健康的な状態でもある。

 

前段にあった、経路依存による不明瞭な最終形にしろ、福祉のプロポーザルにしろ、里山にしろ、オニクルにしろ、平均化されていない限定された集団だからこそ、”うまくいった”のである。

限定した方が良くなるが、排除してはいけない。が、排除しないことを目指すと平均化された価値のないものとなる。

 

今回の万博のテーマ「いのち輝く未来社会のデザイン」は、これ自体かなり均されたポリコレ的ではあるが、それでも輝くいのちとは個性を認める(平均化されていない)ということは示している。

最後に建築論議自体が、社会的な議論であるということは、建築をそれなりに学んでいる人であれば納得するところであろう。

ただ、誤解を恐れずにいうのであれば、一般市民にそこまでのリテラシーがないことも事実である。そのため。説明すること説明し得ないこと、意味のあること、意味のある/なしを一旦括弧にくくることを同時にできなければいけない。

答えは未来に開かれているという最後のメッセージは、あるいは、現段階での答えをすぐに求めてしまう(リテラシーの低い)市民に対する反論でもあり、。

結局のところ愚鈍に惑うことしかできない。

これが藤村氏の3つの問いに対する答えだったのではないか。

 

 

PERFECT DAYSを観ました

*まだ下書きだけど、編集する時間もないし、鮮度が大事なので公開

 

何かを表現する為の映像、ではなく、映像が映像としてある、ということ。

 

良い映画を観て、久々に文章が書きたくなったので書こうとしてみる。

 

この映画は、ミニマルな映画だ。意味深な表情を浮かべる登場人物、伏線と思われるシーンに対し、その伏線は回収されることなく終わる。何かあったが、何があったかは語られない。わからない状態をそのまま認める必要がある。

映画のみに限らず、一般的に表現作品の大半には伝えたいもの(内容)があり、それを伝えるために表現があると思われている。伝達手段としての表現、という考え方だ。

しかし、実際には伝達手段として以外の表現も存在しうる。この映画の場合、確かに「東京に暮らす男(それもかなり地位の低いとみなされる)の豊かな(完璧な)日常」を描こうとし、その伝達のために必要がない情報として、伏線は回収されずにそぎ落とされている。しかし、我々はこう思う。「なぜ、この兄妹は泣きながらだきあったのか?」「どうして平山はこの仕事をするに至ったのか?」そう思わざるをえない。

ここで、気付く。この映像と我々との間にある距離に。つまり、この映像は我々に「映像」を見せているのであり、「物語(内容)」を伝えようとしているのではないということに。我々の世界とこの映像の世界は、別の世界としてあり、その中の断片が映像化されたというだけなのだと。ただ”そこにある”作品とただ”そこにある”鑑賞者の想像だけがあり、それは互いに干渉しない。互いに退隠している。

表現が表現として自律している状態、伝達手段としての、つまり二次的なものではなく、一次的に表現が存在している状態ということ。とはいえ、作り手として考えると、この物語には、構造も原理も存在している。実際には、兄妹が泣いている理由も平山の過去も存在する。建築の考え方にも通ずるところである。

 

この構造は、映像内の物語にも存在している。

 

 

そのあと久々にLEONをみた。

レオンも同じような人間性だが、マチルダによって、そのルーティンの世界から抜け出そうとする。結果失敗するわけだが、観葉植物(親友かつレオンのメタファー)はマチルダにより広大な土地に放たれる。面白いのは(浮遊している/閉じた世界)から(根を張る/開かれた世界)という直感的に相反する状態同士の共存状態の転換を示しているところ。鉢が浮遊と閉鎖の両義的なメタファーとなっていることである。

 

まあ、なんにせよ「閉じた自分だけの世界」へのあこがれってあるよね。

珈琲から考える建築観

いままで珈琲を焙煎したりいれたりしてきたが、ふと自分の建築観と珈琲の近さを感じたので書く。

 

そもそも、珈琲の味は減点法だと言われる。生豆の状態から、焙煎して、珈琲として入れられるまで、その珈琲豆のもつ本来の味を出すことが目指される。雑味やエグ味が出ないように、あるいは酸味や苦味などのそのままの特性を生かすために、悪い豆は除き、いかに適した焙煎度合い、適した挽き具合、適温、適した時間で注ぐか。

また、サードウェーブ以降の珈琲文化では、安定した味を出すために、全てを数値で管理するデータ派閥まで台頭してきた。

一杯の珈琲をつくることに関わる全ての人は、誰もその珈琲豆を無視して「こうしたい」という意図を持つことは許されない。その珈琲豆のもつ特性を最大限に出すことだけが唯一目指されることなのだ。だから、つくる全ての人は透明で匿名なのだ。(とはいえ、その特性の抽出が上手いが故に名の通っている人は存在するが)

 

建築を設計するとき、自分がこうしたいと思うことはほとんどない。

場所や与えられた条件からどういう特性を見つけ、その特性をいかに顕在化あるいは引き継ぐか。

だからそういう意味では、建物をつくる必要も必ずしもあるわけではない。

建築の設計とは、ただそこに存在するコードを読み取り、パラメーターをどう調整するかという作業でしかないと思うのだ。

恣意や作為はいらない。作家性は必要ない。

設計者は透明で匿名でいい。

抽出が上手いが故に名が通ってしまうような、そういう設計をしていきたいと思う。

 

SDレビュー評

SDレビュー(以下SD)を週末に見て、何か腑に落ちない、建築の限界をまざまざと見せられているような感覚に陥り、消化目的で文章にしてみる。

公開しているので誰でも読めるのだが、ぜひ不快な気持ちにはならないでほしい。多分あなたの方が優れているので。

さて、SD評については、すでに橋本氏や市川氏、藤原氏が述べていることで全てのような気もするのだが、書いていこう。

 

大きく分けて3つの引っ掛かりがあった。

 

1つ目は、手法の新しさのようなものを感じつつも、完成物としての建築の新しさに欠けるように感じられたことだ。完成物にある種の既視感を覚えざるを得ない。

「手法自体が建築的活動並びに建築的態度であり、それが今日の「建築」なのだ」というような考え方もわからなくはない。

ただ、古い考え方なのかもしれないが、手法とは新しい答え(かたち)を導き出し、そして、手法の持つ再現性によってその新しい答えを普遍化するためのものだったのではないだろうか。

その再現性と新しいかたちにこそ批評性が宿るのだと思う。

 

2つ目は、今回の作品たちは、今日の建築潮流を如実に表しているように感じた。それは、「多数化」「複雑化」「具体化」などといった、前時代批判的な建築ボキャブラリーをどの展示も持っているような気がしたからだ。その感覚については、当事者として共感しかない。

そういったことを問題にしたときに、立ちはだかるのは、その複雑さをどうまとめるのかという全体性である。今回のSDの場合その多くは手法だったように思う。複雑さをゆるくまとめるための手法。それもわかる。

ただ、結局語られるのは、まとめるための手法のみであり、それよりも詳細の、つまり複雑さを解いてバラバラにしたひとつひとつへの解法が明らかにされていないことへの違和感が残る。個々のかたちの決定因が不在であり、センスにひと任せにしているように感じたのだ。みんなセンスがいいのでそれはそれでまとまって美しく見えるのだが。

アクターネットワークやホワイトヘッドなどの連関モノを引用する建築作品(読んでいないのでその思想自体の批判をする気はない)につきまとう、万物は関係によってのみ語られ、逆説的にそれ単体では無価値であるという世界観を今回のSDにも感じてしまう。

ハーモニーが奏でられるとき、少なくともそれは音階だけで語られるのものではないだろう。

また、そういった関係性だけで語るとき、手法に全体性を委ねるとき、実際には批判していた前時代と同じくその建築の全体性の維持に対する脆弱性を孕んでいるのではないか。

ずっと作者らの土俵ではないところで勝手なことを言っているが、これからの建築として目指されたキーワードが示すものが同時代の平面的な広がりであるなら、時間の連続的な深さ(例えば持続可能性)も同時に見せてほしいと思うのは欲張りなのだろうか。

 

3つ目は、表現が表現然としていることである。手法を表現するために制作されたドローイングや模型表現が散見された。

そもそも我々の作る建築物は、例えば思想や敷地の条件や施主の要望や法規や構造などの多数の事柄のそれぞれの表現であるが故に、それが一義的な表現(つまりダイアグラムのような伝えるための道具)ではなく、一つの強度を持ったオブジェクト化し、それは制作者の意図を超え、曲解され、誤解され、それすら”真”になるから残り得るのだ。

我々が作る表現というものは、ドローイングや模型含めそういったものであるといいなと思う。

そういう意味では、詭弁かもしれないが、筆者が表現が苦手なのも(現にこのブログには図表がほとんど登場しない)、弁解が苦手なのも、他人の誤読を許容しているからだとも言える。自分の考えていることを100%伝える気がない。書かれた文章も自分の意図もそのどちらも世界から退隠しているのだ。

 

あと、単純に東京展は会場が狭すぎる。

昔見た京都展はもう少しゆとりがあった気がするのだが。

書くことメモ

平倉圭「かたちは思考する」序章「布置を解く」,第3章「マティスの布置」書評と現代建築家の動向

MBTIと建築

なかへち美術館「現代の織7 佐久間美智子」展評

 

 

建築の可動性,未完の建築

何か書こうと思い始めて

先日、後輩の境界についてのブログがひと段落した。働き始めてからずっと何か書かねばと思っていたが、もう半年が過ぎてしまっていた。中々あがらない重い腰をやっとのことであげたわけだが、中々文字が書き進まない。3行目にして、無駄な修辞で引き伸ばしたような文章である。人と話すときはスラスラと言葉が出てくるのに何故なのか。

会話や議論というものは、セッションである*1言葉や韻、リズム、テンションなど複数の要素が絡み合う流れの中に、どんな音を置くか。うまく音を置けない時は全く話さないし、ノっている時は矢継ぎ早に足していく。こんなことを思ったのは、つい最近後輩と飲んだ時だった。

そうだ。最近の会話や出来事についてならまだもう少し文字も書けるだろう。ということは、ほとんど日記のような文体*2にしよう。一応、テーマは「境界について*3」という事にして。

*1:セッションという言葉を使うといつも映画のあのポスターを思い出す

*2:文章は人間の根源的な表現の一つである。語尾を変えるだけでも雰囲気は大きく変わる。今回はとりあえず、ぶくぶくに太らせながら書いてみる。それは、最近誰かに伝えたかったこと、話しそびれたことの発露でもある。

*3:境界は自分の中で長らくテーマにしていたことでもあるから、何を話すにしても境界の話になってしまう。建築の中では、昔から語られ続けているテーマだが、古いテーマだとは思わない。むしろ今、その境界という言葉で捉えるものが何と何の間のどんな線なのかを意識することが非常に重要だと思う。ちなみに最近自分の中では、「全体性の輪郭」としての境界がホットなテーマ。